2010年07月15日

いとしのマルチヌー

《4つの色〜アンサンブルのたのしみ》
宗次ランチタイムコンサート

☆宗次ホール http://www.munetsuguhall.com/index.php

開演まであと10日。
メンバーとのリハーサルも、いよいよ熱を帯びてまいりました。

このプログラムで出会い、私の心を射抜いた彼♥

* * *

☆ボフスラフ・マルチヌー(1890年12月8日―1959年8月28日)
martinu_in_paris.jpg

☆日本マルチヌー協会公式ホームページ http://www.martinu.jp/

聖ヤコブ教会の鐘楼に生まれ育ち、6歳まで殆ど塔を出なかったという彼。
生涯連れ添った妻と出会ったのは、サーカス見物の帰り。
1926年、パリでのこと。

なにもかもが、好みすぎます……♥ ♥ ♥
(上の写真はパリ時代。青白いピエロのような面立ちに、ああうっとり…)

時代の大波に翻弄される人生でもあった。
ふたつの大戦と、分断される世界。
芸術家の多くが、流離の日々を余儀なくされ、望郷の歌を綴った。
マルチヌーも、いつも故郷の写真と、少年時代の思い出の品である小刀を肌身離さず持っていたという。

* * *

演奏する作品は、フルートとヴァイオリン、チェンバロ(あるいはピアノ)のための《プロムナード》。
作曲は1939年2月、パリにて。

軽やかに、生き生きと進む4楽章。
涼やかに、涼やかに。

彼が愛したサーカスや、街角の手回しオルガン、ジンタの影。
薄い氷を透かして、魔法の風景をみるような。

* * *

好きな人に会いに行くくらい、心踊ることなんてない。

近いうちに、ひとりで(ソロで)会いに行こうと夢想中。




posted by K10 at 22:33| 思いつき

2009年07月31日

あなたのヴァレンタインになるつもり

おはよう!今日は聖ヴァレンタインさまの日、
夜が明けるよりも早く、
乙女のわたしはあなたの窓辺に立って
あなたのヴァレンタインになるつもり。

その若者は急いでズボンをひっかけ
お部屋のドアをさっと開いて
乙女をなかに入れる。すると乙女は、
出るときにはもう乙女ではない。

子授けの神、愛の神にかけて、
なんて恥知らずなんでしょう!

若い殿方は、折さえあればそのようにする。
ほんとにいけすかないこと。
娘がいうには
「ふざける前に、夫婦になるといったじゃないの」
「君が入って来さえしなかったら、なんにもしなかったさ、
 おてんと様にかけて」

R.シュトラウス『3つのオフィーリアの歌』より
第2曲《おはよう、今日は聖ヴァレンタインさまの日》


狂ってしまったオフィーリアが、デンマーク王クローディアス(ハムレットの義理の父)と王妃ガートルート(ハムレットの実母)の前で歌う。
結婚前の貴族の娘が、このような卑猥な言葉を口にするなど考えられなかった時代のこと。

ここで、「ハムレットとはすでに本当の恋人どうし」だったに違いない、と読む人々もいるわけです。

オフィーリアは、たおやかそうにみえて実はかなり芯の強い、思い込みの激しいタイプのようですから(私見)、

…アタリでしょうねえ。

でも、軽い気持ちじゃなかったことは確かです。
そんな彼女の心が、愛おしいなあ。

* * * * *

樋口良一:著『バッハの四季〜ドイツ音楽歳時記』平凡社
を読んでいたら、こんな記述に出会いました。

二月十四日は、聖ヴァレンタインの日、つまりヴァレンタインデーである。日本のように、女性が男性にチョコレートを贈る習慣はドイツにはないが、昔の娘たちは、この日はじめて家の前で会った男性と、将来結婚すると信じたものである。これまた人生の春を迎える若い人にふさわしい。
 十七世紀前半の古い民謡「おまえ、わが光」は、こう歌っている。

  おまえ、わが光、
  百合や薔薇にもない
  輝きがおまえにはある。
  けれど鼻柱のつよいのが玉に傷。

  ここの小鳥たちはみな
  喜ばしく囀るが
  それは愛の務めのため
  春だからというだけでは
  楽しくはないだろう。

  だからかわいい人、止めることなく楽しもう
  日毎、夜毎に
  愛の力で。
  そうすれば心は楽しく、
  歓びで時も忘れよう。

  (p.42)


この、豊潤。強いなあ。

* * * * *

ヴァレンタインデーの起源をたどれば、やはりローマ時代に遡るようです。

当時、ローマでは、2月14日は女神ユノの祝日だった。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもある。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日であった。当時若い男たちと娘たちは生活が別だった。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていた。翌日、男たちは桶から札を1枚ひいた。ひいた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていた。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚した。
ローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれている。キリスト教司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたが、捕らえられ、処刑されたとされる。処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれた。ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論である。
(ウィキペディアより)


ユノとは、主神ユピテルの妻、ギリシア神話におけるゼウスの妻ヘラと同一とされる。
…あの、おっかない女ね。

ヴァレンタインデーと、ロマンチックな愛が関連付けられている文書のなかで、現在確認されている最古のものは、ジェフリー・チョーサー(1343年頃―1400年)のものだそう。
彼は、ペトラルカ(1304年―1374年)とも親交があったということで、ああうっとり。

ちなみにシェイクスピア(1564年―1616年)は、上記『ハムレット』の他、『ジュリアス・シーザー』のなかで、ヴァレンタインデーの起源となったルペルカリア祭について言及しているそうです。

楽しいなあ。





posted by K10 at 00:57| 思いつき

2008年09月24日

『神曲』のなかのマントヴァ

ダンテ作『神曲』にて、地獄と煉獄の導師となる
ウェルギリウスは、紀元前70年10月15日、
マントヴァの地に生れたと伝えられている。

平川祐弘訳:河出書房新社の『神曲』を読み返す。

そのなかに表われたマントヴァ。
ああ、憧れのかの地よ。

* * * * *

彼が答えた、「いまは人ではないがかつては人だった、
 両親はロンバルディーアの者で
 国は二人ともマントヴァだ。
 ・・・」

ダンテがウェルギリウスと初めて出合う場面。

(地獄篇 第一歌 67行〜)

* * * * *

『おおマントヴァの親切なお方、
 あなたのお名前はいまも世に知られております。
 この世の続くかぎり永く永く伝わることと存じます。
 ・・・』

辺獄(リンポ)にいたウェルギリウスに、天上界にいた
ダンテ生涯の思い人ベアトリーチェが、ダンテを救うよう
求めた場面。

(地獄篇 第二歌 58行〜)

* * * * *

 水はいったん流れだすと
  もうベナーコではない、ゴヴェルノーロに至るまで
  ミンチオと呼ばれる、そこでポー川に合するのだ。
 湖を出てほど遠からぬあたりに低地帯があって
  そこに水が溢れて沼をなすから、
  夏はとかく不健康地となっている。
 荒くれた娘〔マント〕はそこへ通りすがり、
  未開の無人の土地を
  沼の中に見つけだすと、
 そこに自分の手下を連れてとどまった、
  人間との交わりを避けて妖術を行なうためだ。
  そこで生涯を送り魂の抜けた骸を遺した。
 そのあたりに散らばっていただ人間が後に
  その島に集まった。場所は
  周囲を沼に囲まれているから守りが固いのだ。
 その女の骨の上に市をつくり
  最初にその場所を選んだ女にちなんで
  マントヴァと名づけた。ほかに案がなかったからだ。
 ・・・

不遜にも未来を占った魔法使いや占い師を罰する地獄にて。
ここでは、マントヴァの由来は「マント」という女魔術師
によるとされている。

(地獄篇 第二十歌 76行〜) 

* * * * *

 先生が答えた、「マントヴァ・・・」
 すると思いを内に秘めていた亡者は、
 やおら先生の方に身を起こして、
 「おお君はマントヴァの人か、私はソルデルロ、
 君と同郷だ!」といって互いにひしとあい擁した。
 ・・・

煉獄にて、1200年頃マントヴァに生れた吟遊詩人ソルデルロ
と出会うダンテとウェルギリウス。

(煉獄篇 第六歌 71行〜)

* * * * *

 そしてピエートラ村の名をマントヴァ市よりも
  高めた優しい魂は
  私が積んだ〔質問の〕重荷を解いておろした。
 ・・・

ピエートラはマントヴァ近くのミンチオ川に面した村。
ウェルギリウスのより詳細な生地とされる。

(煉獄篇 第十八歌 82行〜)

* * * * *


初めて『神曲』を読んだのは10年前、留学中のこと。
その時は、マントヴァの名を意識することは
ありませんでした。

こうして読み返す本は、いいなあ。
posted by K10 at 01:36| イタリア

2008年07月05日

神々の愛でし子ら

本のなかに、こんな一節をみつけた。

モーツァルトの生涯のなかで意味深いエピソードのひとつだが、十四歳のとき、ミラノで、イギリス生まれの神童と出会った。同じく十四歳、ヴァイオリンの名手で、即興曲を巧みにつくる。二十二歳で死ぬのだが、「神々の愛でし子」といったタイプだったのだろう。幼くして、とびきりの技能をもち、すでに完成されていて、若死にを宿命づけられている。よく似た二人のミラノでの出会いは、”ロココ”などとよばれたヨーロッパ十八世紀宮廷文化の一つの華だったにちがいない。

『モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち』
 池内紀/著 光文社知恵の森文庫



このヴァイオリンの天才少年とは、トマス・リンリー(1756-1778)のことだろう。
イングランド西部、温泉で名高いバースに生まれた。
のち、父とともにロンドンに移住。華々しく活躍するも、22歳の若さでこの世を去り、その死はモーツァルトにも伝えられたという。

父のレオポルトも音楽家だったモーツァルトと同じく、リンリーの父もまた音楽家であった。そして、ヨーロッパを旅してまわる神童は、当時このふたりばかりではなかった。
「ブタペスト出身のカールとアントン」、「アントワープ生まれのファニー姉妹」などなど。小さな子供が、大人と同じように豪華な衣装をまとい、カツラをつけ、おっそろしく達者に楽器を弾く「見せ物」が、ロココの宮廷で愛された。


ロマン派は、ロココから仮面舞踏会と仮装衣装への偏愛を受け継いだが、これらは徐々に苦悶を脱却した。というのは、ロマン派は、ふつう考えられているのとはちがい、十八世紀よりもずっと心配性ではないからである。ロマン派は、社会がその基盤と軸を失った時期の陰気な渇望をすっきりと浄化したのだった。とくに芸術創造の面でのロマン派の建設的な意欲は、ロココがそれに苦しみながら、気楽な幸せと影のない快楽の外見の下に隠していた、分裂と分解の過程とは対照的であった。
(マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』)

『音楽と文学の対位法』青柳いづみこ/著 みすず書房



中世、「子ども」は「小さな大人」「弱い大人」というカテゴリーにあり、産着をはずされた時からすでに労働力であった。
近世になり「子ども」という存在は、「可愛がりの対象」「気晴らしや歓びを引き出す対象」という新しい心性を持つようになる。

そして、「神童」という「商売」が生れた。
ロココの時代空気に、音楽の神に愛でられし子どもたちは、完璧にフィットした。


彼らの笑い声が聞こえるような気がする。
イメージに漂い、遊ぶのはただ楽しい。
しかし、あらためて楽譜に向かいピアノに向き合ったとき、この遠雷のような不安は、現実のものになるだろう。

ちなみに、トマス・リンリーの音楽はいくつかCDが出ており、現代でも楽しむことができる。
『シェイクスピアの妖精劇のオード』、『テンペストのための音楽』など。タイトルも私好みだ。

1770年、ミラノで、ふたりはどんなことを語らったのだろう。
posted by K10 at 21:25| 思いつき

2008年06月21日

寿命

モーツァルト35歳、シューベルト31歳。
ウィーンに散った、夭折の天才作曲家たち。

ロマンティックな想像はいくらだってできます。
(モーツァルトの《レクイエム》にまつわる逸話の多くは、
 19世紀ロマン派の時代に作られたものだそうです。)


ところで、この時代の平均寿命とはいったいどのくらいだったのでしょうか。
戯れにネットで検索してみましたが、確実なデータはちょっと探せませんでした。
しかし、いろいろな記事に書かれている情報からみるに、18世紀中頃〜19世紀初頭、ウィーンに住む男性で35歳前後から40歳前後、女性で40歳前後から45歳前後だったようです。
現代と比べると、ずいぶんと短いですね。

むむ。
これでみると、モーツァルトはそれほど早死にでもないぞ。

そこで、モーツァルトが生まれた1750年代生まれ(モーツァルトは1756年)の著名人について、ちょっと並べてみました。

* * * * *

★フリードリヒ・フォン・シラー(1759−1805:46歳)

ドイツの詩人、劇作家。ゲーテの友達。疾風怒濤。
46年とは思えないほど、濃密な人生を歩んだ男。
ベートーヴェン第九の歌詞は、彼のものです。
そういえば、頭蓋骨論争はどうなったのかしら?


★マリー・アントワネット(1755−1793:38歳)

「ごめんなさいね。でも、わざとではありませんのよ。」
処刑台で執行人の足を踏んでしまった、王妃の最後の言葉。
彼女は殺されてしまったので、寿命とはいえないけれど。


★マクシミリアン・ロベスピエール(1758−1894:36歳)

しまった。彼もギロチンでした。
フランス革命期の政治家。恐怖政治の人。
でも、志は高かった。


★ウィリアム・ゴドウィン(1756−1836:80歳)

イギリスの政治評論家。
「美しきメアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』の作者)」のお父様、の方が私にはしっくりきます。
わあ、お父様ご長命でいらっしゃったのですね。


★アントニオ・サリエリ(1750−1825:75歳)

この御人は、はずせません。モーツァルトのライヴァル。
先に述べた平均寿命から考えても、とても長生きです。
彼の生涯は、音楽史上ではグルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズ、リスト、と重なっているわけです。50年で、どれほどに音楽が変わっていったことか。
…自分の作品がどんどん時代遅れになっていくのを、彼はどんな思いで受け止めたのでしょう。
ううむ、これは宿題。

* * * * *

乳幼児の死亡率がとても高かったので、成人の寿命は平均のそれよりは長かった、ということでしょうか。
ギロチンの死者には時代が反映されています。
そしてしっかり長生きされている方も(なんだか嬉しいです)。


シューベルトの生まれた1790年代は(彼は1797年生まれです)。

* * * * *


★カール・ツェルニー(1791−1857:66歳)

ウィーンのピアニスト、作曲家。練習曲が有名です。
彼のお師匠さんは、ベートーヴェン。そして彼の生徒に、リストがいました。リストはベートーヴェンの孫弟子になるわけです。
うむ、それなりに長生きされていますね。


★ジョアキーノ・ロッシーニ(1791−1868:76歳)

イタリアの偉大なる作曲家。《ウィリアム・テル》《セビリアの理髪師》などなど。でも、作曲家として活動したのは10代終りの頃から20年ほど。あとはパリで、高級レストランを経営。たぶん、音楽より料理の方が好きだった。彼も、十分に長生き。


★イグナーツ・モシュレス(1794−1870:76歳)

チェコのピアニスト、作曲家。ウィーンではかのサリエリに師事しています。そして彼のお弟子さんには、メンデルスゾーンの名前も。まだ知名度は低いのですが、そろそろ弾いてみたいと思っている作曲家さんのひとりです。…彼も、長生きだなあ。


★フィリップ・フォン・シーボルト(1796−1866:70歳)

オランダの医師、博物学者。鎖国から開国へ、日本の外交・文化両面で大きな影響を与えた人。
長生きは音楽家ばかりではないですな。あの時代に、あれほどの旅をしながら、70歳か。素晴らしい。


★ハインリッヒ・ハイネ(1979−1856:59歳)

ドイツの詩人、ジャーナリスト。シューベルトと同い年ですね。
シューベルトの歌曲集《白鳥の歌》には、彼の詩も多数使われています。
「書物を焼く国は、やがてその国民を焼くであろう。」胸に刻んでいるハイネの言葉です。

* * * * *


ちなみに、この時代の日本では

★大塩平八郎(1793−1837:44歳)陽明学者
★渡辺崋山(1793−1841:48歳)画家

まだまだ「人間50年」の時代ですね。

posted by K10 at 22:45| 思いつき

2008年06月01日

名の由来

今秋の演奏会のため企画書を作成中。
例によって、脱線ばっかり。

あれこれ寄り道してるうちに出合ったサイトです。
マントヴァの歴史から芸術の、基本が一望できます。
リンクさせていただきました。

http://www.nttdata-getronics.co.jp/today/spazio/spazio63/ogawa.html


そのなかで、私が捕まった文章。

 マントヴァの語源となったマントゥアはその中でポー河の左岸(北側)に位置する唯一の都市であり、エトルリア民族の存在の北限の地ということができる。マントゥスというエトルリア固有の冥界の神の名に由来すると思われるが、定かではない。



定かではない、かもしれないけれど、私はこの説信じます、すっかり。

マントヴァの宮廷で初演された、オペラの誕生を告げるモンテヴェルディの『オルフェオ』。愛する妻を冥界まで、音楽の力で取りもどしに行く。
詩聖ダンテは『神曲』のなか、紀元前70年頃マントヴァに生れた詩人ヴェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、天上界を旅する。

ルネサンス期この地で活躍した画家マンテーニャの、冷徹な眼差し。現実をえぐるような「死せるキリスト」。

有名な「テ宮殿」のみならず、この都市の建造物にあふれる官能と崩壊の美。
ここにも、冥界の気配を感じてくらくらする。


かの地には、異界へ通じる巨大な口がある。
湖からの湿気を含んだ風は、冥界の王の吐息。


ああ。はやくまた行きたいなあ。


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posted by K10 at 19:51| 思いつき

2008年03月10日

マントヴァのヘラクレス

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思わぬところで1500年代マントヴァの薫りと出合う。
以下、少し長いが転載させていただく。


[表紙]《ヒュドラへの勝利者ヘラクレス》
ジョルジオ・ギージ版刻(G.B.ベルターニ原図)
1558年以前 銅版画(エングレイヴィング)35.0×21.1cm

 表紙は古代ローマのウィトルーウィウスの建築書の注釈書扉絵である。注釈者はジュリオ・ロマーノの弟子ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルターニ。原図作者でもある。版刻者はマントヴァ出身で、16世紀版画の代表者のひとりジョルジオ・ギージ(1520−82)。1558年マントヴァの出版社によって刊行された。
 建築書になぜヘラクレスなのかは、本書が献じられたマントヴァの枢機卿で実質的な統治者だったエルコーレ・ゴンザガのエルコーレがヘラクレスのイタリア語というだけのことにすぎない。とはいえ、ヘラクレスは神話中の英雄、最も人気の高い神であり、十二の功業をはじめとしてその力倆は賛仰の的でもあるから、献呈用の図としては申し分ない。ある研究者は、これ以前の注釈書とその著者たちへの勝利もこの像に含めたと推測する。
 勝利者のオリーブの冠をかぶるヘラクレスの頭上の紋章はこの期のゴンザガ家のもので、左上隅から時計廻りに正義・慈愛・不屈・節制の寓意像が、天秤・子どもたち・円柱・壷から液をそそぐ姿によって認められる。他に円盤に描く有翼の六人の女性、積み重ねられた本、楽器と天球ないし地球儀、そして右上には煙に何かをくべる老人。この老人は錬金術を暗示するもので、ヘラクレスが果してきた超人的な仕事と関連させることは16世紀では珍しいことではなかっといわれる。
 英雄の脚下には多頭のヒュドラ。一つ首を切ると二つの首が生えるという怪物だが、腹をみせて横たわる。その足の一つが枠をはみだしているのは、英雄の棍棒をもつ右手が内側の枠をはみだすのと同じく、三次元空間のイリュージュンをたすけている。

(坂本 満 さかもとみつる・美術史)
『図書』2006年9月号 岩波書店

※原文では縦書きの漢数字で記されていた箇所を、横書きの読みやすさを考えアラビア数字に変換させて頂きました。


本文にあるエルコーレ・ゴンザガ(ゴンザーガ)枢機卿は、フランチェスコV世・ゴンザーガ(在位1540年-1550年)の後見人である。フランチェスコ三世は、父の死によりマントヴァ公に即位した時まだ7歳であったため、成人するまでは、母親とふたりの叔父が国を治めた。エルコーレは、その叔父のひとりである。
フランチェスコ三世は27歳の若さで世を去る。その後を継いだのは弟グリエルモ・ゴンザーガ(在位1550年-1587年)。彼の息子ヴィンチェンツォ(在位1587年-1612年)が、後にカッチーニの妻となるジュリアと政治絡みの関係を持ち、モンテヴェルディの雇い主となった男である。

不自然なほど筋骨隆々としたヘラクレス。
マントヴァの、ヘラクレス。
彼の後ろの影など、極端な3D具合が楽しい。








posted by K10 at 23:06| イタリア

2008年03月08日

カッチーニの妻

塩野七生氏の著作『愛の年代記』より「ジュリア・デリ・アルビツィの話」。
物語も終盤、次の一文に、心の針がちくりと動いた。


 「…翌年の春、ジュリアは結婚した。メディチから与えられた持参金を
  持って、大臣のヴィンタの指示で、メディチ家の音楽師カッチーニの
  許へ嫁いだのである。」



この、カッチーニとは、あの、カッチーニだろうか。


物語の舞台はイタリア、ルネサンス華やかかりし頃。
マントヴァ公爵ヴィンチェンツォが、まだ世継ぎの若君だった頃の話である。

1581年、マントヴァの若君ヴィンチェンツォ・ゴンザーガと、老パルマ公爵の孫でスペイン王臣下高名な武将アレッサンドロ・ファルネーゼの娘マルゲリータとの婚約が成立した。
パルマでの結婚式後の宴、18歳の花婿と14歳の花嫁はとても仲睦まじく、ふたりの幸せも国の安泰も、何の問題もないように思われた。
しかしこの14歳の花嫁には、結婚生活に支障をきたす重大な身体的欠陥があることを、彼女自身はおろか、誰も知らなかった。
彼女の体は、男性を受入れることができなかったのである。
外科的手術を受けねば、世継ぎを生む事は不可能。よしんば手術を受けたとしても、妊娠出産はおろか、命の保証もない、という3人の医師からの診断が出た。
2年後、マルゲリータ・ファルネーゼ・ゴンザーガは尼僧院へ入る。

独身に戻ったヴィンチェンツォをめぐり、次の花嫁探しがはじまった。名があがったのは、トスカーナ大公の息女レオノーラ・デ・メディチである。
実は彼女の名は、最初の花嫁探しの折にも出ていた。しかし、レオノーラの継母がもともと大公の愛人であったため、マントヴァ公が難色を示したのだった。
その時の屈辱を、今や大公妃であるビアンカ・カッペロは忘れていなかった。
ヴィンチェンツォとレオノーラの婚約に際し、実に意地の悪い一項を付け加えさせる。
つまり、ヴィンチェンツォとマルゲリータの結婚が破れた原因はマルゲリータの肉体的欠陥にあったばかりでなく、もしかしたら、ヴィンチェンツォのほうにも欠陥があったのではないか、という噂に目をつけたのである。


 「…マントヴァ公国の世継ぎヴィンチェンツォ・ゴンザーガ殿と、
  トスカーナ大公の第一女レオノーラ・デ・メディチ姫との婚約は、
  ヴィンチェンツォ殿がしかるべき女との試みに成功し、結婚生活
  をするに不適当でないと証明された後に、はじめて成立する。」



この残酷な実験の贄として選ばれたのが、フィレンツェ有数の貴族の姓を持ちながら、その私生児として庶民に育てられていた、ジュリアであった。

実験台を引受ける代価は、3000スクード金貨の持参金と、夫を見つけてくれることであった。
いかに屈辱的なことであろうとも、彼女には引受けるしか道はなかった。
たとえ実験台に選ばれなかったとしても、「持参金のない」貴族の女である彼女には、尼僧院に入るより他に道もなかったのである。

実験の場所はヴェネツィア。1584年3月、精をつけようとはめをはずしたヴィンチェンツォのちょっとした失敗(詳しくは本書にてぜひ)もありながら、この実験は成功に終わった。
ジュリアに、束の間見た幸せゆえに悲しみのつのる、夢だけを残して。

マントヴァでは、帰って来たヴィンチェンツォも列席して、婚約成立のミサが行なわれた。
フィレンツェでは、レオノーラ・デ・メディチの嫁入り支度がはじまった。

ジュリアもフィレンツェに戻り、かつての庶民の暮らしに戻っていた。
ヴェネツィアでの夢の名残は、帰る時に与えられた数着の衣装だけであった。

4月29日マントヴァにて、ヴィンチェンツォとレオノーラの婚礼が行われた。

その年の冬、ジュリアは男の子を産む。誰の子かは、問うまでもなく。
生まれてまもなく子供はジュリアから引き離され、マントヴァへ送られたが、そこでの記録は残されていない。

そしてジュリアは、宮廷に使える音楽師カッチーニの妻となった。


 「…夫となった男は、音楽師としての才能はあったらしい。性格的には
  どんな男だったのかは知らない。彼とても、ジュリアの前歴は知って
  いる。知っていて、3000スクードもの大金と、大臣に恩を売っておく
  有利を計算して、結婚を承知したのであろう。結婚生活は地味なもの
  だった。普通ならば宮廷付きの音楽師の妻として列席を許される宴に
  にも、ジュリアの姿を見た者はいなかった。それが、ジュリアの意志
  によるものか、それとも夫の要求によったものかは知らない。」



ジュリアは没年さえ明らかではなく、ただ、1600年の記録では、ジュリア・デリ・アリビツィ・カッチーニは、もうこの世の人ではなかった、と物語は閉じられている。


新訂標準音楽辞典によれば、ジューリオ・カッチーニは、1545年頃ローマかティーヴォリに生まれ、1618年12月10日フィレンツェにて埋葬されたとある。

1601年、カッチーニは彼の遺した最も大きな仕事のひとつ『新音楽』を世に出す。《アマリッリ》などを含む、非常に美しい歌曲集であるが、それはいわゆるバロック様式の出発点となったばかりでなく、近代の歌曲に繋がる歌の黎明を告げる、歴史的な作品であった。
師としての力量もあったようで、1607年にマントヴァにて上演されたモンテヴェルディ作曲のオペラ『オルフェオ』の主役を歌ったカストラートは、カッチーニの弟子であったと伝えられている。

また、現在カッチーニの作品としておそらく最も有名であろう《アヴェ・マリア》。この作品、実は贋作であるらしい。
このあたりについては、ウィキペディア「ジュリオ・カッチーニ」にて。
彼の人柄や、贋作問題について触れている 。


麗しの地マントヴァを舞台とした、今秋の演奏会。
プログラムの候補には、カッチーニの歌曲もあがっている。
タイトルにも、歌詞にも、「愛」の言葉が溢れている。
それらは優美な旋律にのり、心の琴線にふれる。

その優美の裏側の、歴史の真っ暗闇に、ジュリアの涙が吸い込まれていく。
そんな幻影が、ちらついて消えない。


(引用は『愛の年代記』塩野七生/著 新潮文庫 より)


contact : halfwaydown@hotmail.co.jp


posted by K10 at 01:49| イタリア

2008年02月22日

シューベルトの靴下

シューベルトの楽譜を開くと、いつも同じ気配と温度を感じる。
イメージに現れるシューベルトは、いつも靴下に穴が開いている。

傲慢な妄想。と、ここで我にかえる。


シューベルトって、靴下を履いていたのかしら。

手持ちの本を調べたら、あったあった。


 「 燕尾服         … 3
   フロックコート     … 3
   ズボン         … 10
   チョッキ        … 9
   帽子          … 1
   長靴          … 2
   シャツ         … 4
   ネッカチーフとハンカチ … 9
   ソックス        … 13
   亜麻布         … 1
   ベットシーツ      … 2
   マットレス       … 1
   クッション       … 1
   布団カバー       … 1 」

『シューベルトの手紙』
O.E.ドイッチュ編「ドキュメント シューベルトの生涯」より
實吉晴夫 訳/解説 メタモル出版 p.272



これはシューベルトの、遺産の管財リスト。
遺された13足の靴下(ああ、きゅんとくる)。
たしかに、シューベルトは靴下を履いていた。
ちょっと、満足。

・・・で、どんな靴下?
素材は? 毛糸? 絹? 木綿?

仕事の合間を縫い、閉館ぎりぎりの図書館に駆け込む。


「 靴下のルーツ

 靴下のルーツをたどってみると、文献的には2世紀頃、すでにエジプト人がたびのように親指と他の4本の指に別れたものをはいていたと記されている。しかし、これは靴との区別がつけにくく、靴下のルーツとは言いにくい。
 今日のような靴下の起源は、西暦約1000年前後、気候の寒い北ヨーロッパで、絹、薄い毛織物、細糸の綾織木綿、毛布などを裁断して縫い合わせた、ふくらはぎ丈の短い物が用いられるようになったとされている。
 しかし、この頃はまだ防寒が主目的で、靴下がファッション性を持ち始めるのは1400年代に入ってからのことである。この時代を背景にしたオペラやバレエを見れば、左右色違いの長靴下をレースなどで胴着に結びつけたカラフルな男性ファッションが登場するが、これはホースといって、貴族などは勲章にあたるデザインをホースで表現していたという。1500年代に入ると、半ズボンが流行し、ももまでの長いホースは脚の下半分のものになった。さらに、1800年代に入ってズボンが長くなると靴下が目立たなくなり短いソックスの時代に入る。」 

 『1991 靴下辞典』より 出版:レッグファッション



ふむふむ。

エジプトで発掘された、子供用の靴下の写真を見た。
2000年前も、子供服ってたまらん可愛いですね。

ところでシューベルトは1797年1月31日うまれ、
1828年11月19日、31歳でこの世から消えた。

18、19世紀。モードの主流はやはりパリ。
しかし男性ファッションは、なんといっても英国です。
ボー・ブランメルは偉大だ。


「ソックス:メッツァ・カルツァ

 副題のイタリア語は「半分のソックス」(ハーフソック)の意味で、複数ではなく単数の女声名詞である。これはイタリアの上流階級で用いる、ダサイのがありありと分かるものを説明する言葉で、女性名詞であることから女性向けが多く、(必ずではないが)よく出自のいやしい女性に使うようだ。また「品のない」( common ) とか「陳腐な」( commonplace ) といった意味もある。たとえば、短いソックスをはくのは「メッツァ・カルツァだ」というふうに。」

『ハーディ・スミスの イギリスの紳士服』より
ハーディ・スミス/著 森秀樹/訳 大修館書店


 
ふむむむむ。
ちなみに、英語最大の辞典『オックスフォード大辞典』では

「普通脚のふくらはぎまでの短いストッキングで、ハーフ・
 ホーズ(ガーターでとめるふくらはぎまでの男性用ソックス)
 とも言う」
と、ソックスを定義しているそうです(同著)。


「 その昔、1589年にノッティングガムシャーの牧師、ウィリアム・リーが靴下編み機を発明して以来、あらゆる色の靴下が愛用されるようになった。が、19世紀になると、ふたたび地味な靴下が好まれるようになったのである。向上心に燃える紳士が出世するには、五種類の靴下を履き分ける術(すべ)が要求された。シルク、ウール、リネン、コットン、そして混紡の靴下がその5種類であった。白い靴下は純粋にスポーツ用のみであり、それ以外には黒無地、もしくはグレイのミックス調だけが許されたのである。 」

『英國紳士はお洒落だ』より
ポール・キアーズ/著 出石尚三/訳 飛鳥新社



たぶん、シューベルトは黒っぽい色の靴下を履いていた。
それはきっと毛玉だらけだったり、伝線していたり。
でも、彼はそんなこと全然気にしなかったんだろう。
おおらかな、若者らしい心で。


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posted by K10 at 20:34| 思いつき